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ここで紹介している文章は、ASP(Assosiation of Shareware Professional)で紹介されている記事を許可を得てshareEDGEにて翻訳掲載しています。
 

シェアウェアの歴史

シェアウェアの歴史に関して、いくつかの記事を集めてみました。業界初期のメンバである Buttonware社のJim Knopfと、PsL社のNelson Fordに関する記事です。又、さらに詳細を知りたい方は、 他のサイトリンク (リンク)も参照ください。

シェアウェアの起源

by Jim Knopf

私の名は Jim Knopfです。この記事に目を留めてくださりありがとうございます。まあ、腰でもかけて少しお付き合いください。

そうです。私が1982年にシェアウエア革命を起こしたのです。シェアウエアの創生についての話の真実を知ってください。

シェアウエアは2つの場所で同時に生まれました。カリフォルニア州の TiburonではAndrew Fluegelman 製作のプログラムPC-Talkとして、そしてワシントン州BellvueではPC-Fileとして発明家Jim Knopfによって製作されたのです。私がそのシェアウエア生みの親であるJim Knopfです。これは、`私がいかにして超ハードな生活に足を踏み入れてしまったか?‘の物語です。

当時私は地元の教会団体のために宛先ラベルを印刷するためのプログラムを作ろうとしていました。私は Apple コンピュータを所有していたのでApplesoft BASICを使ってプログラムをかきました。私は単なる印刷用プラグラムではなく、一般的にも使えるようなデータベースのプログラムを作りました。私はプログラミングをすることが大好きで、自分の余暇時間にまで夢中になって改良つづけるような感じで趣味のようなものでもありした。

その後、間もなく、 IBM のパーソナルコンピュータが発表されました。私は瞬時にこのマシンがパソコン業界での革命を起こすことを悟りました。そしてその日のうちに自分のアップルのマシンを売りに出し、IBM PCを注文したのです。

最初に Applesoft BASICからIBM BASICに書き換えたのは、例のデータベースプログラムでした。変換は、簡単で、すぐに、IBM PC上でちっぽけなデータベースプログラムは順調に稼動を始めました。

私は、当時 IBMで働いていました。多くの同僚たちは自分のはじめてのパソコンマシンを手に入れていました。パソコンの熟練者として、私は同僚たちが順調なスタートを切れるよう案じておりました。そこで、私のデータべースプログラムを同僚たちと共有をしはじめたのです。

単純によいものを他と共有し合いたいという気持ちから、 PC-Fileは作り出されました。まだ名前は考えていませんでした。(ただ‘Easy File`という風に呼んでいました)。間もなく、それはIBMシアトルオフィス内でのヒットソフトとなり、やがては友達、知人間でコピーを共有しあう熱心なユーザに支持されてシアトル中でヒットとなったのです。

熱心なユーザたちが急増してきたので、それの記録を追うためにデータベースプログラムを使いました。しかし、すぐに問題につきあたりました。ソフトの修正、改良をユーザに知らせることにとても費用がかかり、手間のかかる作業となったのです。どのユーザが真剣に機能アップを求めているのか見極めることができるか?どうやったら、改良したことを簡単に通知することができるのだろうか?

私は、プログラムの中に自分のメッセージをつけるようにしました。プログラムを受け取った人にある程度の経費を負担してもらえるように任意の献金を募ろうとしたのです。メッセージではユーザに、ぜひこのプログラムを使って、他の人とも共有して、そして私のメーリングリスト上に名前を連ねたいと考えるならば、10ドルの献金を送ってくれるよう促したのです。

最初にこの風変わりなリクエストを受けた人がすぐに電話をしてきました。その人は、 PC-Talkという他のソフトを入手した際にも同じようなメッセージを受けたというのです。彼は、2件とも献金の依頼をしてきたという似たような内容だったことにとても興奮しており、私にPC-Talkの作者である、Andres Fluegelman に連絡を取ってみるよう薦めるのでした。私はPC-Talkの内容をよく調べてみました。この作者は、他のプログラマ達にこの目新しい‘市場実験(Marketing Experiment)‘に参加しないかという呼びかけをしており、私は自分のプログラムを早速Andrew に送ってみることに決めました。

Andrew は感激して、すぐに私に電話をくれました。そしてソフトの販路についてお互いに協力しあうことにしました。Andrew が使っているPC-Talkとお互いに補完しあうものとして、自分のソフトにPC-Fileという名前をつけようとおもいました。そしてAndrew の提案どおりの額25ドルの献金を依頼するつもりでいたのです。

次に何が起こるか予想だにできませんでした。「もし1人でもお金を送ってきてくれるとおもってるんだったら、あなたはおばかなおじさんだわ。」と妻は言っていました。しかし、私はもっとうまくいくと思っていました。もしかしたら、私の楽しみである PC周りをもうちょっとよいものにできる位の献金が集まるかもしれない、たぶん数100ドルくらいは、などと思っていました。ひょっとすると1000ドルくらいも!などという野望も。しかし、私の小さな郵便私書箱はすぐに手紙一杯に成る程、全国からの反響は大きなものだったのです。

全ては正しかったのです。 PCはまるでホットケーキみたいに飛ぶように売れるのに、使えるデータベースソフトが殆どのなかったのです。他のソフトは違法コピー防止のために厄介な仕組みをつけたことにより負荷が重たいものになっていました。しかし、ここにはコピーを奨励するようなプログラムがあったのです。

他のプログラムはとても高価でした。そしてここには相当に安価なソフトがありました。

他のプログラムは、試してみることなくお金を出して買わなければなりませんでした。ここには唯一購入前に試して使ってみることができるプログラムがあったのです。

他のプログラムは小売店で買わねばなりませんでした。ここには革新的な新しいマーケティングに関するアイデアがあり、そしてネタに飢えたコンピュータ雑誌がありました。そして、結果、 PC-Fileのお金をかけない大きな宣伝になったのです。

さらにある現象がさらにシェアウエアの成功を確かなものにしてくれました。世界で最大手として知られるようなコンピュータクラブが国中に結成されたのです。クラブのソフトライブラリ管理者たちはメンバ皆で共有できるようなプログラムを探していたのです。シェアウエアのアプローチはこういったクラブの要望にぴったりでした。より多くの無料広告宣伝がシェアウエアディスクの幅広い流通を促したのです。

Doug Clappという人がPC-Fileに関してPC-World誌にすばらしいレビューを書いてくれました。その雑誌が売りに出されたのは、私たち家族が一緒にハワイで休暇中の時でした。反響は大変なものでした。家の管理人は毎日大きな紙袋に入れた手紙の数々を家まで運ぶのにカートを使わなければならなった程です。

我々が家に戻ったとき、手紙を入れた紙袋は地下室中の床に散乱しているような状態でした。我々は踏み越えたりよけたりしながら、地下室の仕事部屋へ向かわねばなりませんでした。息子のジョンは日中も夜も週末も夏中手紙の仕分けに明け暮れました。我々にとって日々の生活は決して以前と同じようにはならなかったのです。

私は常々 IBMからの給与の2倍を他の方法で稼ぐまでは、会社をやめる気はないと言っていました。私は間違っていました。1984年の夏までに私はちっぽけなソフトウエアビジネスで10倍ものお金を稼ぐようになっていたのです。しかし、まだIBMを自主的に退社する気はありませんでした。

IBMを自主的にはやめなかったものの、体がそれを私に強いました。毎日IBMで8時間働いた後で、帰宅後さらに4時間働くことは、もう不可能でした。土曜日曜はセカンドジョブのためにつぶれました。まさに分岐点に立たされていたのです。とてつもない怪物をつりあげてしまったようなものでした。そいつは私を激しく振り回し続けるのに、私はそのつり竿を放すことができないでいたのです。

‘ジム、このソフトウエアビジネスを趣味がてらに片手間でこなすつもりでいるなら、そんなに深刻になってどうやってやっていくつもりだい?‘この考えが、何ヶ月もの間私の体が欲していた休息を得るきっかけになりました。私は IBMを退職しました。

今は1987年です。

何時の日か、この話のつづきを誰かが書くことでしょう。私のソフト会社はいまや10種類以上の製品をかかえています。18人の従業員もいます。シェアウエアは立派なマーケティングの1方法として認められるようになりました。 PC-File、私の趣味のひとつとしてのデータベースだったソフトはいまや100万もの熱心な信徒を抱えるようになったのです。

追記: その数年後のピーク時に会社は35人もの従業員を抱え、450万ドルの年間売り上げを記録しました。

1995年追記

これで `Jim Buttonがシェアウエア生みの親であるとわかったでしょうか。そうです。それが私です。私は`Jim Button`のペンネームで本を書いています。そのほうが売れそうな響きだからです。同時に私の本名Knopfはドイツ語で`Button`の意味です。‘シェアウエアの父‘という本は自伝ではありません。この本は1985年に友人のPeter Nortonによりもらったものです。

ソフトウエアの流通形態を示すシェアウエアという言葉は比較的新しい言葉です。 Andrew と私は当時‘フリーウェア`という言葉で呼んでいました。これらの語は今では異なる意味になってきており、`シェアウエア‘が現在もっとも一般的に用いられている語です。

1992年に私は49歳にして心臓発作をおこしました。ワシントン州東部の田舎育ちには、ソフトウエアビジネスはストレスが多すぎたのです。こういった負担を取り除くことにしました。私は昨年、仕事上の資産を全部売却し、仕事から退き、家族との静かな生活を楽しむため太平洋側北西部での蟄居しました。今や、私は孫を肩に乗せたり、釣竿を振り上げたりの日々です。


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